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時々弁当屋のチラシが新聞に挟まってくる。
端から競争する気など無いが、そんな日は若干客足が落ちる。
改めて折り込みを見てみると、なんとも揚げ物のおかずが多いことか。
子供の頃食べた弁当とは全く異質の眺めのものである。
学校給食が始まったのは確か小学校3年生の頃。
それまでの2年と、中学高校の6年間弁当を作ってもらった。
その当時は好き嫌いの多かった自分に弁当をこしらえるのは大変な苦労だったと思う。
一番多く登場したのは海苔弁当。
今みたいにフライなどがたくさん付いているものではない。
白米の上に敷かれた海苔がメインのおかず。
せいぜい、てんぷらかまぼこを甘辛く煮付けたものが添えられる程度。
味噌汁の具を掬って、そのままおかずにした様な級友の弁当に比べると、
相当に贅沢な海苔弁だった。
当時の弁当の容器はアルマイト。
新聞紙で包み鞄に入れるのだが、汁気の多いおかずの時は汁が漏れ出す。
漏れ出た汁は教科書やノートの端っこを薄茶色に汚した。
食べ物の匂いが、食べ物以外のものに付くことに神経質だった自分は、
『美味しかったよ、ありがとう!』という言葉の代わりに、
『また、汁が漏れてたぞ!』なんて文句を言っていた。
とんでもない親不幸ですな。
そう言えば、あの頃の昼食の風景は異様だった。
みんな弁当の蓋を被せ隠しながら食べていた。
持ってこれない子は教室を出て体育館に行く。
お喋りする声もあまり聞こえない。
少なくとも楽しい時間ではなかった。
次の世代を背負う子供たちには、そんな思いをさせてはいけない。
3年前の石巻市大川小学校の校庭。
和やかな給食の時間を過ごした70余名が集められていた。
『津波てんでんこ』。
古老の教えが守られなかった悲惨な例となった。
復興という大義名目のもとに忘れされようとしていること、
または国という権力によって封じ込められようとしている記憶がある。
3年という歳月の区切りに自分たちがなさねばならぬこと。
依然として多くの人達が先の見えない仮設住宅で暮らしている事実など。
たまたま災害を免れた我々には日々の暮らしの中で、
心の片隅に常に重い石のように、そのような記憶を抱えて生きていくことが務めに思える。


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